思考の整理学

随分前から話題になっていましたけどね、私は長く手を出さないでいたんですよ。だって帯に「東大・京大」って書いてあるんですよ。これはどう考えても信用ならないでしょ。何か資格の教本だったらともかく、一文庫本ですよ。「東大・京大」×「思考」=「頭良くなる」みたいな、そんなのを前面に出している(実際に全面に出しているのは帯ですけどね、本自体は小ざっぱりとした落ち着いた本なんですけど)この本は、本当にそれだけの価値があるのか?とずっと疑って見てたんですよね。それに、読みたい本はほかにもあったから、ずっと後回しにしていたんですけど。そしたら秋の授業で先生のお奨め本の中にこれがありまして、じゃぁ読んでみようかと、ね。信頼が置ける人の意見でしたらということで、買って読んでみたわけです。買ったのは2週間以上前か。あんまり本読む時間がなくなってきたので、大学が始まりましたからね、まぁこれくらいのペースなのかな。
さて、無駄話はいい加減やめて。

外山滋比古「思考の整理学」ちくま文庫

(何を学ぶにもまず学校に行くべきだという世論に対し)たしかに、学校教育を受けた人たちは社会で求める知識をある程度身につけている。世の中に知識を必要とする職業が多くなるにつれて、学校が重視されるようになるのは当然であろう。いまの社会は、つよい学校信仰ともいうべきものをもっている。全国の中学生の94%までが高校へ進学している。高校くらい出ておかなければ……と言う。ところで、学校の生徒は、先生と教科書にひっぱられて勉強する。自学自習ということばことあるけれども、独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようなものだ。自力では飛び上がることはできない。グライダーと飛行機は遠くからみると、似ている。空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、飛行機よりもむしろ美しいくらいだ。ただ、悲しいかな、自力で飛ぶことができない。学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない。グライダーの練習に、エンジンのついた飛行機などがまじっていては迷惑する。危険だ。学校では、ひっぱられるままに、どこへでもついて行く従順さが尊重される。勝手に飛ぶ上がったりするのは規律違反。たちまちチェックされる。やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する。優等生はグライダーとして優秀なのである。飛べそうではないか、ひとつ飛んでみろ、などと言われても困る。指導するものがあってのグライダーである。(pp10-11)


人間には、グライダー能力の飛行能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である、両社はひとりの人間の中に同居している、グライダー能力をまったく欠いていては、基本的知識すら習得できない。何も知らないで、独力で飛ぼうとすれば、どんな事故になるかわからない。しかし、現実には、グライダー能力が圧倒的で、飛行機能力はまるでなし、という"優秀な"人間がらくさんいることもたしかで、しかも、そういう人も"翔べる"という評価を受けているのである。(p13)


われわれは、花を見て、枝葉を見ない。かりに枝葉を見ても、幹には目を向けない。まして根のことは考えようともしない。とかく花という結果のみに目をうばわれて、根幹に思い及ばない。聞くところによると、植物は地上に見えている部分と地下にかくれた根とは形もほぼ同形でシンメトリーをなしているという。花が咲くのも地下の大きな組織があるからこそだ。知識も人間という木の咲かせた花である。美しいからといって花だけを切ってきて、花瓶にさしておいても、すぐ散ってしまう。花が自分のものになったのではないことはこれひとつ見てもわかる。(p14)


教育は学校で始まったのではない。いわゆる学校のない時代でも教育は行われていた。ただ、グライダー教育ではいけないのは早くから気がついていたらしい。教育を受けようとする側の心構えも違った。なんとしても学問をしたいという積極性がなくては話にならない。意欲のないものまでも教えるほど世の中が教育に関心をもっていなかったからである。そういう熱心な学習者を迎えた教育機関、昔の塾や道場はどうしたか。入門しても、すぐ教えるようなことはしない。むしろ、教えるのを拒む。剣の修業をしようと思っている若ものに、毎日、薪を割ったり、水をくませたり、ときには子守りまでさせる。なぜ教えてくれないのか、当然、不満をいだく。これが実は学習意欲を高める役をする。そのことをかつての教育者は心得ていた。あえて教え惜しみをする。(あえて中略)それに比べると、いまの学校は、教える側が積極的でありすぎる。親切でありすぎる。何が何でも教えてしまおうとする。それが見えているだけに、学習者は、ただじっとして口さえあけていれば、ほしいものを口へはこんでもらえるといった依存心を育てる。学校が熱心になればなるほど、また、知識を与えるのに有能であればあるほど、学習者を受身にする。本当の教育には失敗するという皮肉なことになる。(pp17-19)


かつて、漢文の素読が行われた。ろくに字も読めないような幼いこどもに、四書五経といった、最高度の古典を読ませる。読ませるというのは正確ではない。声を出して朗誦するだけである。先生は意味をご存知だが、習うこどもには、チンプンカンプン、何のことかさっぱりわからない。しかし、漢文の素読では、意味を教えないのが普通で、だからこそ、素読というわけである。いくらこどもでも、ことばである以上どういうことか、意味が気にならないわけがない。しかし、教えてもらえないのだから、しかたがない。我慢する。その間に、早く意味もわかるようになりたいと思う心がつのる。教えないことが、かえっていい教育になっているのである。(p19)


夜、寝る前に書いた手紙を、朝、目をさましてから、読み返してみると、どうしてこんなことを書いてしまったのか、とわれながら不思議である。外国で出た手紙の心得を書いた本に、感情的になって書いた手紙は、かならず、一晩そのままにしておいて、翌日、読み返してから投函せよ。一晩たってみると、そのまま出すのがためらわれることがすくなくない。そういう注意があった。現実的な知恵である。それに、どうも朝の頭の方が、夜の頭よりも、優秀であるらしい。夜、さんざんてこずって、うまく行かなかった仕事があるとする。これはダメ。明日の朝にしよう、と思う。心のどこかで、「きょうできることをあすに延ばすな」ということわざが頭をかすめる。それをおさえて寝てしまう。朝になって、もう一度、挑んでみる。すると、どうだ。ゆうべはあんなに手におえなかった問題が、するすると片付いてしまうではないか。昨夜のことがまるで夢のようである。(中略)朝と夜とでは、同じ人間でありながら、人が違うことを思い知らされたというわけである。(pp22-23)


"朝飯前"ということばがある。手もとの辞書をひくと、「朝の食事をする前。『そんな事は朝飯前だ』〔=朝食前にも出来るほど、簡単だ〕」(『新明解国語辞典』)とある。いまの用法はこの通りだろうが、もとはすこし違っていたのではないか、と疑い出しだ。簡単なことだから、朝飯前なのではなく、朝の食事の前にするために、本来は、決して簡単でもなんでもないことが、さっさとできてしまい、いかにも簡単そうに見える。知らない人間が、それを朝飯前と呼んだというのではあるまいか。どんなことでも、朝飯前にすれば、さっさと片付く。朝の頭はそれだけ能率がいい。(pp23-24)


(以上を受けて)英雄的早起きはできないが、朝のうちに、できることなら、朝飯前になるべくたくさんのことをしてしまいたい。それにはどうしたらいいのか。答えは簡単である。朝食を抜けばいい。8時に起きて、8時半に食事をしていたのでは、朝飯前の仕事など絵にかいた餅。朝食をしなければ、8時にいきて、すぐ、仕事を始められる。朝食抜きというのは当たらない。ひるまでおくらせる。朝食と昼食とを同時にとると言った方がおだやかである。これが決して異常なことではないのはブランチ(brunch 昼食兼用のおそい朝食。breakfast+lunch)ということばがあるのでもわかる。こうすれば、昼間ではすべて朝飯前の時間、そこですることはすべて、朝飯前ということになって、はなはだ都合がよろしい。(中略)食後はゆっくり休む。そのかわり、食前はすべてを忘れて仕事に神経を集中させる。これには午前中をすべて朝飯前にするのがよろしい。8時に起きても4時間ある。その間に、その日の仕事をすませてしまう。(pp25-26)


(詰め込みの倉庫式教育から、創造性ある知的工場式教育にするためには、忘れることが重要である。忘れることを恐れてはならない。)忘れるのは価値観にもとづいて忘れる。おもしろいと思っているこてゃ、些細なことでもめったに忘れない。価値観がしっかりしていないと、大切なものを忘れ、つまらないものを覚えていることになる。(p115)


(忘れるためには休憩が必要であるが、別のことをすればそれをせずともリフレッシュできる。)勉強家は朝から晩まで、同じ問題を考えている。いかにも勤勉なようだが、さほど効率はよくない。田舎の勉強、京の昼寝、というが、時間のありあまるほどある人が、没頭して時の移るのを忘れる勉強をしても、それほど、うまく行かない。むしろ、休み休みの方が進むものは進む、ということを教えたことばであろう。この点、だれが考えたのか知らないが、たいへんうまいことをしているのが、学校の時間割。国語をやったら、数学、そのあとは社会をして、理科、体育をしたら図工。こういうように、一見、脈絡のないことを次々とやる。詰め込みだと見る人も出てくる。もうすこし、組織的にしてはどうかというので、2時間続きの授業を試みたりする高校があるけれども、すこし考えが違っているように思われる。倉庫型の頭をつくるのならともかく、ものを考える頭を育てようとするならば、忘れることも勉強のうちだ。忘れるには、異質なことを接近してするのが有効である。学校の時間割はそれをやっている。(pp118-119)


万有引力ニュートンは次のように言ったと伝えられている。「世間ではわたしのことをどう思っているか、知らないが、自分では、自分のことを浜辺で遊んでいるこどもみたいだと思っている。ときどき珍しい小石や買いを見つけて喜んでいるが、向うにはまったく未知の真理の大海が横たわっているのだ」。(p128)


(平家物語が、語られていくうちに純化して、整理されたわかりやすいものになっているのを例に、考えたことは書いてみるということ勧めて、)思考は、なるべく多くのチャンネルをくぐらせた方が、整理が進む。頭の中で考えているだけではうまくまとまらないことが、書いてみると、はっきりしてくる。書きなおすとさらに純化する。ひとに話してみるのもよい。書いたものを声に出して読めば、いっそうよろしい。『平家物語』が"頭がいい"のは偶然ではない。(p139)


(自分が考えたことを他人に話す時には、否定してはいけない。)ほめられると、われわれの頭は調子に乗る。つい勢いづいて、思いもかけないことが飛び出してくる。ピグマリオン効果というのがある。40人の生徒のいるクラスを20人ずつ2つのグループA,、Bに分ける。学力はAB平均して同じようにしておく、まず第1回のテストをする。Aのグループには採点した答案をかえすが、Bのグループの答案は見もしないで、京氏がひとりひとり生徒を読んで、テストの成績はよかったと告げる。もちろん、でたらめである。やがてしばらくしてまた、第2回のテストをする。前と同じようにAのグループには点のついた答案を返し、Bグループにはひとりひとりを呼び出して、こんどもよくできていた、と答案は見せずに、返さずに伝える。生徒はいくらか不審に思うが、ほめられるのは悪くない。あまりうるさいせんさくはしないでそのままにしてしまう。こういうことを何度かくりかえしたあと、こんどは是認の答案を採点、AB両グループの平均を出してみる。すると、ほめていたBグループのほうがAグループより点が高くなっている。これがピグマリオン効果と呼ばれるものである。まったく根拠がなしにほめていても、こういうウソから出たマコトがある。まして、多少とも根をもったほめことばならば、かならずピグマリオン効果をあげる。まわりにうまくほめてくれる人がいてくれれば、いつもはおずおずと臆病な思考も、気を許して、頭を出してくれる。雰囲気がバカにならない。いい空気のところでないと、優れたアイディアを得ることは難しい。(中略)われわれは、どうもお世辞を言うのにてれる。見えすいたことを口にするのを恥じる。しかし、どうせ、あいさつには文字通りの意味はないのである。朝寝坊した人でも人は「お早よう」と言う。ほめるのは最上のあいさつで、それによって、ほめられた人の思考は活発になる。(pp149-151)

(以上、改行任意。漢数字および旧字体は一部算用数字および新字体に改めた。)

1章と4章から抜粋しました。他の章は各自買って読んでください。あ、ひとつ。3章は、梅棹忠夫「知的生産の技術」岩波新書を読んだことある人は、趣旨がかぶってることに気づくでしょう。そして、このコンピュータの時代に、と思うと思います。私がそうで、5年以上も前に「知的生産の技術」を読んでそう思ったんです。今読んだらなおさらですが、でもまぁいずれも、20年以上昔の本ですから(この「思考の整理学も初版は86年ですからね、俺生まれてないし)、まぁそのあたりは目をつむってください。それを除いてもなお、まぁ読んでおいて損はしない本です。

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)