叱れない人間を叱れる人間に変える(齋藤直美『叱り方ハンドブック』中経出版)

私の人生の傾向としてまぁ仕方ないんですけど、忌憚なくズバッと意見を言ってくれる女性が私の周りにはそんなに多くないんですね、片手もいないです。彼女らとは今後も縁があって欲しいと思うのですが、その中のお一人から、まぁとある団体について後輩を叱ってくれと言われちゃいましてね、かつてそこの代表を務めていたということもありまして、その訴えは至極真っ当なんですけど、いかんせん私が叱るということを学ばずにこの歳にまでなってしまったので、これを機会にどげんかせんといかん。というわけでその翌日に書店に駆けこんで1冊本を選んできまして(こういうところがまぁ私のいいところでもあり、悪いところでもあり、因みに書店は目黒駅上の有隣堂です)、帰り道眠い中読んでました。まだ半分も読んでいないのですが、色々思うところがあったことを片っぱしから:

「叱る」をひと言でいえば"望ましい行動を促す動機づけ"です。「叱る」と「褒める」は対局の方法ととらえられることが多いですが、手法は違えど目的は相手に望ましい行動を促す動機づけなのです。(p19)

この本の頭でいきなり目から鱗状態でしたね、まぁよく考えればそうなんですけど、今まで気に留めたこともありませんでした。叱ると褒めるが同ベクトルである以上、叱れない人間は褒められない人間なんじゃないかと、幾分不安になったり。

実は、出来事が感情を引き起こすのではなく、自分の価値観が感情を引き起こしているのです。先ほどの例を見てみましょう。「自分なりに考えて作った企画を上司はよく読みもしないで無下に扱った」ことの奥には"上司は部下をねぎらうべきだ""努力は認められるべきだ""正しく評価されるべきだ"という価値観があると考えられます。その価値観に合わない出来事に遭遇したために腹立たしさや不快な感情が起こるのです。つまり、怒りの感情は出来事や相手の言動が直接引き起こすのではなく、自分の価値観が引き起こしているのです。(pp30-31)

これをABC理論というらしいですが、なるほどなぁと。価値観の違いはそういうところにも現れるのね。よく世代間で価値観は違う、ジェネレーションギャップだなんて言われたりしますが、成程後輩とは意見があわないはずです。私のそんなに良くないところに、先輩の意見はほとんど鵜呑みにするところがあるんですけど(別に何にも考えていないわけではありませんよ、だた、自分の価値観が先輩とぶつかったときに、そんなに葛藤をしないで相手の価値観をそんなもんだと認めてしまう嫌いがあるということ)、多分これが、私が後輩を好きになれない理由のひとつなんだろうなと思う。つまり、どこかで「後輩は先輩の価値観に合わせるべきだ」というのがあるんでしょうな。まぁ価値観を全部ひっくり返せとか、そういうことを言っているんではなくて、せめて先輩の前では同じ価値観でいてくれっていうことなんですけど、これのせいで、自分と価値観が合わないとすぐにコミュニケーションをやめる傾向がありましてね、あんまり良くないですよね、なんとかしなければいけません。

事実と主観を混ぜて叱られると、人は不快を感じます。事実と主観を混ぜるとは、「遅刻をするなんて、やる気がないのか!?」というような叱り方です。(中略)相手を不快にさせないために、起こっている事実と憶測の主観は切り離し、事実に焦点を合わせ叱りましょう。(p39)

あんまり叱ったことがないから個人的な実感はないんですけどね、なんかついやっちゃいそうな気がします。まぁ叱るのは怒るとは違いますからね、この本にも書いてありましたが。

対面コミュニケーションにおいて、話す内容、視覚情報、聴覚情報がどれくらいの割合で影響を与えているかを数値化したものがあります。視覚情報は55%、聴覚情報は38%、話す内容はわずか7%です。つまり、叱る言葉や内容より、叱っているときの表情や態度、声の大きさや口調、トーンのほうが大きく影響するのです。(p40)

話す内容わずか7%かよ、これに一番衝撃を受けたわ。そんなに視聴覚の情報が大事なのか、よりも、そんなに人の言ってる内容を聞いていないのか、の方が大分インプレッションだわ。あんまり大きな声出すの得意じゃないんだけどなぁ、俺。