3年で辞めた若者はどこへ行ったのか

大学生協で買った本シリーズ。発想法は自分の頭と経験がついていかなかったので読むのを止めて(こういう本の読み止めは初めてだな)、その後に買った本を読み始めました。
この本の前作「若者はなぜ3年で辞めるのか?」(光文社新書)は読んでないのですが、まぁこの本を読めば、その新書のタイトルの答えは得ることが出来るかな、とは思ってます。さてさて、では、久々の更新だな、ここは。まぁそれだけ本が読めなかった環境だったということだな。

城繁幸「3年で辞めた若者はどこへ行くのか」ちくま新書

(会社に入ったらそのレールに乗ったまま終身雇用で社会人を終えるのが良いとされる、この本では「昭和的価値観」と呼ばれていることのひとつについて、新卒で外資投資銀行に就職した人曰く)「邦銀やメーカーに就職した同期なんかと話すと、ものすごく度胸があるなって感心します。だって、自分の市場価値のことなんて、まったく考えていない。将来会社が潰れたりしたら、絶対路頭に迷うはず。なんでそんなに他人に人生を任せられるのか。私に言わせれば、ああいう生き方の方がはるかに高リスクな時代でしょう。」(中略)安定を選んだはずの年功序列企業の人間ほど、実際には生活が破綻するケースが多い。若いうちはまだいい。それに、必ず定年まで勤められるなら、十分リターンは得られるだろう。だが40歳を超えて離職せざるをえなくなったとしたら、どうだろう?恐らく、彼に市場で通用するような人材価値は無いだろう。(中略)「もし明日解雇されたとしても、私には来週から別の投資ファンドで働ける自信がありますから。キャリアというのは、本来そういうものだと思いますよ。」(pp29-30)


(日本とアメリカのIT企業の違いについて、その双方をよく知っている人曰く)「アメリカのIT企業は、どんなに小さくても、必ず何か1つは独自技術を持とうとする。逆に日本では、とりあえず大手の系列に潜り込もうとする。簡単に言えば、日本のIT産業は、巨大なゼネコンみたいなものなんです」本来、ITには「小よく大を制す」というイメージがある。スピートと革新が重要なフィールドなのだから、独自の技術や製品を持てさえすれば、あっという間に世界を制することも可能だ。実際、マイクロソフトやグーグルはその代表だろう。ところが、日本のIT企業にはそれがない。モノ作りへの意欲といったものが、決定的に欠けているのだ。日本のITビジネスは、NEC富士通、日立といった大企業を頂点とし、数千社の企業が下請け、孫請けする形で成り立っている。会社内もピラミッドなら、企業群もまたピラミッドを成しているわけだ。まさにゼネコンと言っていい。「そういう意味では、日本のIT企業は、モノ作りより人材派遣会社と言ったほうが近い。リスクのある開発よりも、仕事を請け負い、SEを派遣することで安定した利益を得ようとする。モノを作りたくて作った会社が、いつの間にか会社を維持するための会社になってしまっているんです」(pp40-41)


新卒で入社し、定年までその会社で働くことが、かつての日本における代表的な人生モデルだった。だから「何でもやります」という若者を企業も優先し、学校側も企業の期待に応えるべく、そういった人材を輩出し続けてきた。昭和的価値観において、重要なのは仕事内容ではなく、会社名だったのだ。「日本企業だと『部長になったから、これからはマーケティングをやりたまえ』なんて言われるわけです。だから、やりたくもない人が、本で齧っただけのマーケティングを嫌々やっている。そんなことやってたって上手く回りっこない」年功序列だと、まず序列ありきだ。担当する仕事は、後から序列に従って割り振られることになる。こうして、嫌いな仕事も不得意な仕事も、黙々とこなすサラリーマン達によって、会社は動いていくことになる。それでなんとかここまでやってこれたのだから、日本企業は偉大なる素人集団と言えるかもしれない。(p42)


(社会人留学について)年代も、MBAを取得してキャリアアップを図る20代から、「若い頃からの夢だった」という団塊世代まで、実に幅広い。ただ、やはり中心となるのは30代前後、それも女性だという。「キャリアや資格を取るという目的の明確な留学は、割合としてはそれほど多くありません。ほとんどの人にとっては、留学は人生を一度リセットするという意味があるんです」(p55)


(東大卒で大手生保に入社したが、最近の仕事にやりがいを感じられず著者に相談した時に)一通り話を聞き終えてから、僕は正直に彼に伝えた。「今以上の処遇を期待したり、キャリアアップとしての転職は、正直難しいと思う」転職希望者をターゲットとしたキャリア採用市場は、いまや1兆円市場だ。ただ、すべての人間がそこで通用するわけではない。求められているのは、年相応のキャリアを積んできている人間だけだ。特に30代は、もっとも脂ののった即戦力として期待される反面、それまで積み上げてきた職歴が厳しく問われる年代でもある。営業管理からSE、経理まで、薄く浅く経験してしまったゼネラリストは、どうしても低い評価しか受けられないのだ。たとえば、東大出でSEを3年だけ経験している30歳と、専門学校卒業後第一線で10年間システム開発に従事してきた人間なら、普通の人事担当者なら間違いなく後者を評価する。転職市場においては、学歴はほとんど意味を持たない。(中略)もちろん、ゼロから異業種に挑戦する気合があれば、この売り手市場、いくらでもチャンスは転がっている。ただ、それには明確な動機が必要だ。「〜をやりたい」「〜が欲しい」といった主体があってこそ、挑戦は実を結ぶのだ。「どこかおススメの転勤先は?」と聞いてくる時点で、その挑戦は無謀なものに終わるだろう。「別に仕事で自己実現する必要なんてない。今の会社で十分な賃金が保証されているのだから、仕事以外に生きがいを求めろ」彼にしたアドバイスは、今後多くの人にとっても有益なアドバイスとなるはずだ。動機のない人間が、無理に転職市場の荒波に立ち向かう必要はないのだから。(pp66-67,太字は管理人)


(大手グループ企業から中小企業へ、キャリアパスのために両親の反対を押し切って転職し、年収が40%ダウンしたが3年間人事の業務をこなした。その後)しかし、その職歴は無駄にはならなかった。3年間の勤務の後、彼は別の企業に、同じく人事担当者としての転職に成功する。今度は大手メーカーの系列企業で、待遇も格段にアップした。最初の転職活動時の苦労が嘘のように、第一希望の企業からすんなりと内定をもらえたという。中小企業とはいえ、前の会社でのキャリアがしっかりと評価された結果だ。よく誤解されることであるが、実は会社の名前というのは、転職ではそれほど重要視されないものだ。むしろ前職があまりにもピカピカだと、「なにか脛に傷があるな」と勘ぐられてしまうことすらある。要するに、何をどれだけ経験して、これから何が出来るのか。転職に必要なのはそれだけだ。(pp72-73)


(上に続いて)彼が手にした武器は、何も視野の広さや高い専門性だけではない。三社を渡り歩くうちに、キャリアに対する意識が大きく変わったのだ。一言で言うなら、それは強さだ。「自分のキャリアを切り売りする感覚ですね。あくまで会社とは対等な関係。言いたいことは言わせてもらう。それで必要とされなければ、別の会社に行けばいい」(p75)


MBAについて)経営管理修士(Master of Business Administration)とは、読んで字のごとく経営実務能力を身につけるための経営コースである。米国企業やコンサルティングファームにおいては、事実上、経営幹部へのパスポートであり、それゆえ各種事例を中心としたきわめて実践性の高いカリキュラムを持つ。これこそ、世界中の知がアメリカに集う理由だ。ただ、ここで重要なのは、こういった専門職修士課程というのは、もともと職務給カルチャーの企業向けに準備されているという点だ。わかりやすく言えば、「30過ぎで事業部長ポストにつくのが普通の企業」でないと、持ち帰った知識なんて無用の長物に過ぎないということだ。(中略、日本ではそのような企業は少ない)それなら、そういうポストについている50歳前後の人間が留学しろという話になる。が、そんな奇特な会社は寡聞にして知らない。ここに、日本型経営のパラドックスがある。経営のプロフェッショナルの必要性は認めていても、それを活かすシステムを持たないのだ。(pp81-82)


(知的立国を目指す日本の大学院が、学生に就職に悪い影響しか与えない場合がほとんどであるということについて)「年齢で序列を決めるやり方だから、専門性なんて重視されない。院卒より学卒だし、大学で勉強なんかしなくても大企業に入れちゃう。4年間無駄に過ごしてしまうことは、社会にとっても大きすぎる損失ですよ。倉庫で眠っている間に旬を過ぎてしまった在庫みたいなものだもの」特に、学資と修士の間には明確な線が引かれている。一定の専門性が要求される一部の技術職を除けば、修士以上への進学は非常なリスクを伴なうのだ。特に人文系で進学しようものなら、民間への就職は著しく困難となる。年齢で処遇を決める日本企業にとっては、彼らが身につけた専門性など無用の長物であり、まして年齢が高い分コスト高なためだ。(中略)これが、世界第2位の経済大国にして、知的立国を目指す小国日本の現実なのだ。年功序列制度は、アカデミズム殺しという顔も隠し持っている。そういう意味では、90年代に知的立国をうたい、企業内(もちろん官公庁も)のこの構造的問題には一切メスを入れることなく、ただいたずらに博士課程の人員を増やした文部科学省の罪は重い。彼らは最初から余剰博士を作りたかったか、あるいはよほどの阿呆ぞろいなのだろう。(p85)


(以上、改行任意。漢数字は一部算用数字に改めました。)

第1章からしか抜き出していませんが、第2章からは、実際に独立しようとしてレールを降りた人の話があります。自分のすべてを投げうってチャレンジしてくる外国人に対して、会社から給与をもらいながらやってる自分が勝てるはずが無い、とか、若いうちにキャリアについて考えないと、やがて考えたくても考えられないような年齢になってしまう、とか、会社内でのゼネラリスト(何でも屋さん)は会社外ではなんの役にも立たない、とか、日本企業の新卒至上主義の弊害、とか。最終章では、かつて「資本家」と「労働者」という社会構造だったのが(これも日本ではどうなんだろう、と思いますけどね、私は)、現在では「正社員」と「非正規労働者」という社会構造になっており、社会的に一番立場が弱いのは「非正規労働者」なのに、社会主義の政党などは未だに「正社員」の肩を持っているという話がありましたね。「格差が生まれてるから改革を中止」ではなく、「格差が生まれてるから改革を断行」が、真の社会的弱者にとっての救済となる、というのが、著者の意見です。