下流志向

大学の生協でふと目につきまして、ぱっと開いたら丁度「矛盾」のところでして、あ、これ面白いな、と思ったんですがとりあえずその時は買わず。しかし後で気になってしまい、結局ご購入。そしたら駅ビルの本屋にずらっと陳列されていて、なんだこれ最近出た有名な本なのか、なんだよ、と少々へこむ私なのでした。ツンデレですか私は。

内田樹下流志向」講談社文庫

(「矛盾」という漢字を見たことがないはずがないのに、その漢字が書けない女子大学生。その理由として)おそらく彼女たちはその文字を読み飛ばしているからだと思うんです。この「読み飛ばし能力」が、今の若い人たちは、僕たちの想像を超えるくらいに発達している。ページを開いて、ぱっと見たとき、その読み方がわからない。意味がわからない単語があったときに、それを軽々とスキップする。スキップしてもぜんぜん気にならない。(中略)ふつうは意味がわからない言葉に遭遇するとスキップしようとしても、なんとなく気になる。引っかかる。喉に小骨が刺さる。なんだかわからないものが飲み込めないままに残っていると、気になって気になって仕方がない。(中略)新聞や雑誌を読んでいるとき、知らない言葉に出会うことは僕たちにもよくあります。そして、知らない言葉でも、「知らないままでもいい言葉」と「これは知らないとまずい言葉」の区別ができる。不思議なものですけれど、「これは知らない言葉だけれど、知らないとまずいような気がする」言葉と、「これは知らない言葉だけれど、知らなくても大丈夫」ということの区別がつきます。「知らないとまずい言葉」については、知っていそうな人に「これ、どういう意味なの?」と訊いたり、家に帰ってから辞書を引いたりして、「穴」を埋めてゆく。けれども、今の若い人たちは、その「穴埋め」作業をどうやらしていないらしい。自分がわからない言葉が、明らかに彼らを読者に想定しているメディアの中に頻出してきても、それが気にならなくなっている。(pp26-29)


学力低下の危機的な要素の一つは、先ほども言いましたが、子どもたちが、自分たちには学力がないとか、英単語を知らないとか、論理的思考ができないといったことを、多少は自覚していても、そのことを特に不快には思っていないという点にあります。どうしてそういうことができるのか、僕にはよくわからなかったのです。でも、これを説明できるロジックというのは、よく考えると一つしかない。それは、彼らは「自分の知らないこと」は「存在しない」ことにしているということです。僕たちは意味のわからない文字が視野を横切ると、「ぎくり」とする。それは、意味で充填されているべきところが空白になっていることに微妙な違和感を覚えるからです。僕たちがあるものを見て、引っかかりを感じるのは、そこにあるべきものがない、あるいはそこにあるはずのないものがあるからです。そういうときに僕たちは「ぎくり」とする。(中略)ところが、「わからない言葉」をスキップする学生たちにとって、「なんだかわからないもの」は「ない」んです。(中略)若い人たちにとっては、世界そのものが意味の穴だらけなんです。チーズみたいに。そこらじゅうにぼこぼこ意味の空白がある。世界そのものが穴だらけだから、そこにまた一つ「意味のわからないもの」が出現しても、チーズの穴が一個増えただけのことですから、軽くスキップできる。たぶん、どこかの段階で、「意味のわからないもの」が彼らの世界で意味を失ってしまったのです。(pp32-34)


(自分の非を認めようとしない、とりあえず「やってない」と言う、昔の不良とは違う生徒が現れたことについて)諏訪さんも、知り合いの教師たちと子どもたちの変貌について、いったいどうして、こんなことになってしまったのかずいぶん議論し、考えられたようです。その結果、これは諏訪さんの洞察だと思うのですけれども、「この子たちは等価交換しようとしているのではないか」という仮説を立てた。ちょっとそのところを引用してみたいと思います。
≪彼および彼女は自分の行為の、自分が認定しているマイナス性と、教師側が下すことになっている処分とをまっとうな「等価交換」にしたいと「思っている」。(…)そこで自己の考える公正さを確保するために、事実そのものを「なくす」か、できるだけ「小さくする」道を選んだ。これ以降、どこの学校でも、生徒の起こす「事件」の展開はこれと同じものなる(今でもそうである)。(諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』)≫
(pp37-39)


小学校に入ると、だれでもまずはひらがなやカタカナや、算数やローマ字なんかを教わるわけですけれど、一年生の教室で、ひらがなを教えようとしたところで、もうすぐに手が挙がってくる。「先生、これは何の役に立つんですか?」子どもたちがそう訊いてくるわけです。(中略)たしかに、その問いには一理あるわけです。子どもにとって、40分なり50分なり、教室に座ってじっとしていて、沈黙して先生の話す話を聞いて、ノートをとるというのは、ある種の「苦役」です。この「苦役」を、たぶん、子どもたちは教師に対して支払いをしているというふうにとらえている。別の言い方をすれば、「苦痛」や「忍耐」というかたちをした「貨幣」を教師に対して支払っている。だから、それに対して、どのような財貨やサービスが「等価交換」されるのかを彼らは問うているわけです。「僕はこれだけ払うんだけど、それに対して先生は何をくれるの?」と子どもたちは訊いている。そのような問いに対して、教師は答えることができない。できるはずがない。これはできないのが当然なのです。そんな問いが子どもの側から出てくるはずがない、ということが教育制度の前提だからです。(中略:しかし、現実には教える側も、この問いの存在を認めている。それに対して)答えることのできない問いには答えなくてよいのです。以前テレビ番組の中で、「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いかけをした中学生がいて、その場にいた評論家たちが絶句したという事件がありました(あまりに流布した話なので、もしかすると「都市伝説」かもしれませんが)。でも、これは「絶句する」というのが正しい対応だったと僕は思います。「そのような問いがありうるとは思ってもいませんでした」と答えるのが「正解」という問いだって世の中にはあるんです。もし、絶句するだけでは当の中学生が納得しないようでしたら、その場でその中学生の首を締め上げて、「はい、この状況でもう一度今の問いを私と唱和してください」とお願いするという手もあります。世界には戦争や災害で学ぶ機会そのものを奪われている子どもたちが無数にいます。他のどんなことよりも教育を受ける機会を切望している数億の子どもたちが世界中に存在することを知らない子どもたちだけが「学ぶことに何の意味があるんですか?」というような問いを口にすることができる。そして、自分たちがそのような問いを口にすることができるということそのものが歴史的に見て例外的な事態なのだろいうことを、彼らは知りません。先ほどの「人を殺してどうしていけないのか?」と問う中学生は「自分が殺される側におかれる可能性」を勘定に入れていません。同じように、「どうして教育を受けなければいけないのか?」と問う小学生は「自分が学びの機会を構造的に奪われた人間になる可能性」を勘定に入れていません。自分が享受している特権に気づいていない人間だけが、そのような「想定外」の問いを口にするのです。しかし、このような問いかけに対して、今の大人たちは、断固として絶句して、そのような問いは「ありえない」と斥けることができない。絶句しておろおろするか、子どもにもわかるような功利的な動機づけで子どもを勉強させようとする。子どもたちは、自分の差し出した問いが大人を絶句させるか、あるいは幼い知性でも理解できるような無内容な答えを引き出すか、そのどちらかであることを人生の早い時期に学んでしまいます。これはまことに不幸なことです。というのは、それがある種の達成感を彼らにもたらしてしまうからです。そして、この最初の成功の記憶によって、子どもたちは以後あらゆることについて、「それが何の役に立つんですか? それが私にどんな『いいこと』をもたらすんですか?」と訊ねるようになります。その答えが気に入れば「やる」し、気に入らなければ「やらない」。そういう採否の基準を人生の早い時期に身体化してしまう。こうやって「等価交換する子どもたち」が誕生します。(pp38-44)


(今の子どもは、早くから消費者としての立場を知り、そこでは「子ども」であることが自分を制限しないというのに味を占めている、というのを前提に)学校では生徒たちは教師に教育サービスの対価として貨幣を払うことができません。でも、何らかのかたちで「貨幣」を差し出さない限り、「買い手」として等価交換の場に立つことはできない。では、彼らは何を貨幣に代用するのでしょうか?これについては先ほど少しだけ触れました。子どもが学校で札びらを切れない以上、教室で使える貨幣は一つしかありません。それは「不快」です。50分間の授業を黙って耐えて聴くという作業は子どもたちにとっては「苦役」です。彼らはその苦役がもたらす「不快」を「貨幣」に読み換えて、教師が提供する教育サービスと等価交換しようとする。学校において、子どもたちが交換の場に差し出すことのできる貨幣はそれしかないからです。彼らは学校に不快に耐えるためにやってくる。教育サービスは彼らの不快と引き換えに提供されるものとして観念されている。ですから、教室は不快と教育サービスの等価交換の場となるわけです。子どもたちは、当然ここで手馴れた「値切り交渉」を行うことになります。自分の「不快という貨幣」を最高の交換レートで「教育商品」と交換しようとする。例えば、50分間授業を聴くという不快の対価として、そこで差し出される教育サービスが質・量ともに「見合わない」と判断すれば、「値切り」を行うことになります。仮に、その授業の価値が「10分間の集中」と等価であると判断されると、50分の授業のうち10分程度だけは教師に対して視線を向け、授業内容をノートに書く。そして、残りの40分間分の「不快」はこの教育サービスに対する対価としては「支払うべきではない」ものですから、その時間は、隣の席の生徒と私語をしたり、ゲームで遊んだり、マンガを読んだり、立ち歩いたり、あるいは居眠りをしたり、消費者である子どもにとって「不快でない」と見なされる行為に充当される。「充当される」というよりむしろ「充当しなければならない」という方が正確でしょう。せっかく10円に値切って買うことにした商品に対して20円を差し出すことは許されません。それは商取引のルールに悖るからです。ですから、いったん「この授業は10分程度の集中の価値しかない」と判断したあとは、残り40分を「授業を聴かない」ということに全力を傾注しなければならない。私語をするのは、「したいからしている」というよりも、「しなければならないからしている」のです。諏訪さんが挙げていた、私語をしているときに教師に注意されて、憤然と「聴いてるよ!」と答えた生徒はたぶんほんとうに怒っているのです。決められた時間以上授業を聴かないように必死の努力をしているのに、どうしてそれを単なる怠惰や不注意のようにとらえるのか。(pp56-58)


不快は貨幣として流通する。子どもたちはいったいこの等価交換の原則をどこで学んだのでしょう?おそらく、その等価交換のやり方を子どもたちは家庭の中で、両親の間で行われる取引のやり方を通じて学んだのではないかと思っています。子どもたちは「他人のもたらす不快に耐えること」が家庭内通貨として機能するということを人生のきわめて早い時期に習得している。現代日本の家庭が貨幣の代わりに流通させているもの、そして子どもたちが生涯の最初に「貨幣」として認知するのは、他人が存在するという不快に耐えることなのです。それは家庭のリアルな様相を思い出せば、誰にでも納得がゆくことだと思います。(中略:昔は父親は給与袋を家庭に持って帰ることで、父親が家計を支えていることを示していたが、現代では銀行振込等でそれが目に見えるかたちになっていない。)その結果どうなったかというと、父親が家計の主要な負担者であるという事実は、彼が夜ごと家に戻ってきたときに全身で表現する「疲労感」によって記号的に表象される以外になくなりました。ものを言うのもつらげに、不機嫌に押し黙ったままドアを開き、ものうげに服を脱ぎ棄て、妻や子からの語りかけにも返事をせず、ひらすら自分一人の不快だけを気づかっている様子から、家族たちは彼が無数の不快に耐えて家計を支えているという厳粛な事実を推察することになります。狩猟者の父親が獣の肉を持ち帰ったように、農耕民の父親が穀物や野菜を持ち帰ったように、現代のサラリーマンの父親はあからさまな不機嫌を持ち帰ることで、彼が家族を養うために不当に過酷な労働に従事していることを誇示しているのです。というわけですから、残る家族もこれに倣うことになります。妻たちも、それぞれの仕方で家庭を支えているという自負は持っているのですが、それを示す術がありません。したがって、父に負けずに不機嫌になることでその努力をアピールするしかない。(中略:妻は家族の存在事態に耐え、子どもも塾で勉強に耐えており、それを不機嫌になることでアピールしている。)家族の中で「誰がもっとも家産の形成に貢献しているか」は「誰がもっとも不機嫌であるか」に基づいて測定される。これが現代日本家庭の基本ルールです。(pp63-67)


(家事全般が昔に比べて楽になった今、妻が不快に思うことはなんであろうか)それは「他の家族の存在に耐えている」という事実以外にありません。たいへん悲劇的なことですが、現代日本の多くの妻たちが夫に対して示している最大の奉仕は夫の存在それ自体に耐えていることなのです。彼の口臭や体臭に耐え、その食事や衣服の世話をし、その不満や屈託を受け容れ、要請があればセックスの相手をする。これは妻たちにとってすべて「不快」にカウントされます。これらの不快の代償として、妻たちは家産の50%について権利を主張できる。(pp65-66)


(自分探しについて、自分探しと言えば、知り合いが誰もいないところへ旅に出るというものである。これに対して)でも、これはずいぶん奇妙な発想法ですね。もし、自分がなにものであるかほんとうに知りたいと思ったら、自分のことをよく知っている人たち(例えば両親とか)にロング・インタビューしてみる方がずっと有用な情報が手に入るんじゃないでしょうか? 外国の、まったく文化的バックグラウンドの違うところで、言葉もうまく通じない相手とコミュニケーションして、その結果自分がなにものであるかがよくわかるということを僕は信じません。ですから、この「自分探しの旅」のほんとうの目的は「出会う」ことにはなく、むしろ私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないかと思います。(p84)


改行任意。傍点は省略しています。

1章だけの引用にしようと思ったのですが、それでも量が多いですね。なんか申し訳なくなってきますが、印つけたところのうちの半分くらいしか抜粋していません、これでも。
あ、ちなみになんで改行しないかと言うと、改行すると場所をとるっていうのもありますが、基本的にはあえて読みにくくするためです。読みたかったら本を買え、ということです。別にこの種類の記事は、本の中身をただで一般公開するのが趣旨なのではなくて、あくまでも、自分が読んだ本の中で気にいったところを、自分が忘れないようにメモがてらブログに書いている。それが本の紹介も兼ねるといいなぁ、と、そう思ってやっているので。だから、本当は気に入ったところは全て書きたいんですけどね、流石に著作者に怒られる。

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)