確率・統計入門(その1)

いやー、寒いですねー。俺は布団から出られない出られない。もうこんな日々が続くと思うと、私は厭になってしまう。俺は根っからの寒がりなので、兎角寒いのが嫌いなんですよ。で、あったかいものをよく飲むのですが、すると私はトイレが近い人間なので、すぐトイレに行きたくなるんですよ。ね、で、これは寒がりしか気がつかないかもしれませんが、排泄って体内の熱も排出しているんですよ。もう冬最悪。しかも下宿先はアンペアが20Aなので、暖房器具が使えない。すぐにバチンッ、とブレーカーが落ちるんです。まぁ電気契約を変更すればいいんですが、親元から離れて私立大学理系学部通っている親不孝者なので、もうなんというか、自分のせいですよねと諦めていますが。というかこれくらいをばねにしてみろ、と。

あぁ、こんなことを書くはずじゃなかったのに。さて、例の確率の本ですが、学業をさぼってさっきいよいよ1章まで読み切ったので。

小針晛宏「確率・統計入門」岩波書店―第1章

大学の図書館で試しに第1章の前半だけ読んだときは、自分がどうして確率に苦手意識があるのかがこれでわかったので、私の人生に影響を与えた数学書10選にノミネートされると思いますよ、この本。

(同じ条件にある、いわゆる「同等に確からしい」ということについて、コインの表裏の出る確率をそれぞれ1/2にすることに対して)けれどもここで明確に確認しておきたいのは、≪同じ条件にある≫ということが、先験的絶対的な事実として点から降って来たのではなく、こちらが主体的にそれを撰択した、ということである。つまり、表が出る確率が1/2ということは、仮定であって、これをさも宇宙の真理であるかのように思うのは迷妄なのである。
 もう一度言うと'表が出る確率はいくらですか'という問に'1/2です'と答えてはいけないのであって、'そんなことは、わからないので1/2としましょう。そう仮定すると実験とよく合うようです'と言うべきなのである。つまり、仮定=出発点を答=終着点かのように思うのは、誤解なのだ。金貨投げに限らず、確率論というと、先験的絶対的な確率というものが、どこかの宇宙空間にフワフワと浮いていて、それを探求する学問であるかのように誤解している人が、世間にはまだ多いと思うが、少くともこの本の読者は、その迷妄から脱してほしい。確率というのもは、先験的にあるものではなく、人間が主体的に決めるものなのだ。先験的にあると思うのは、観念論なのだ。その意識レベルはちょうど≪真理≫というものがどこかにあって、それを刻苦精励の末探求し、追い求めるのが学問だと思っているような、古きよき時代の意識レベルに近い。
 ≪真理≫などというものは、言語の上だけでしか存在しない。何を仮定すれば何が結論されるか、その論理の連鎖が数学なのであって、どの仮定が真理への道か、などというせんさくは不毛な議論しかもたらさないだろう。(pp1-2)

あんまり引用してしまうと流石にまずいので、線を引いたところからいくつか選びました。一般の新書や文庫なら、どこが大切かは人それぞれなので、俺が気に行ったところを全部書いたって、他人にはまだ本を買って読むことに意味があると思うことはできるけど、こういう専門書やハウツー本は流石にそうはいかないかな、と考えているので。

確率・統計入門

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